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風景とその仮象 ―成田輝 個展「遠くのぺらぺら」をめぐって

 

17世紀イギリスの思想家ジョン・ロックは、人間は誕生時はいわゆる白紙状態で、全ての知は視覚や聴覚を通じて後天的に獲得されると考えた。その彼が感覚器官を「窓」に例え、こんな言葉を残している。

“that external and internal sensation are the only passages I can find of knowledge to the understanding. These alone, as far as I can discover, are the windows by which light is let into this dark room”(An Essay Concerning Human Understanding, 第2篇11章7節Dark room)

簡潔に訳せば「感覚こそが知に至る唯一の方法で、それは暗い部屋に光をもたらす窓である」となろうか。同節には「小さな開口部のある、閉ざされたクローゼット」という別の比喩もあり、これはカメラ・オブスクーラの原理を思い出させる。ちなみに彼の生年は、絵画制作にこの装置を用いたヨハネス・フェルメールと同じ1632年である。

 

成田輝は1989年青森県生まれ。デザイナーを目指して武蔵野美術大学に入学したが、そこで彫刻に魅せられた。最初に強い影響を受けた作家は4年生の時に知ったトム・サックス。「自分の常識が壊され、その勢いで大学院に進んだ」という。修了制作から始めたフィギュアがモチーフのFRP製のシリーズを経て、2018年以降は、廃材を用いた立体とエアブラシによる平面表現を、同時並行的に手掛けてきた。

「彫刻とは何なのか」を考えている時間がいちばん多いと成田は言う。そして彼は「立体と平面」の定義や関係性をめぐる問いを叩き台としながら、様々な方法でその思索を可視化させてきた。アニメーション映像のキャラクターの動きをレリーフとした《bow-wow》(2019年)、絵を描いた布を縫い合わせて詰物を入れた《untitled》(2022年)もそれにあたる。

 

 2025年の新作《不在の視線》では、縦長の物体に、庭や山並みが凹凸のみで表されている。全体のプロポーションはドアのようだが、眺望の様子からすると窓と捉えるべきだろう。

私はこの作品について、2つの試みに注目している。ひとつは表面の仕上げ。大部分が黒一色で、鏡のように磨かれている。ゆえに、鑑賞者が詳細を知りたいと近づいても視線は映りこむ自らの姿につるりと躱されてしまう。このような、開口部の向こう側への探求心が報われない状況は、美術史上のある作品を連想させる。それは窓ガラスを黒革に張り替えることでまなざしを遮断したマルセル・デュシャンの《Fresh Widow(なりたての未亡人)》。題名も含め、いかにもデュシャンらしい不道徳なムードが漂う作品だ。しかし一方で《不在の視線》はというと、かような人間の暗部とは無縁で、むしろ哲学的でさえある。

 というのは、カートゥーン的なフォルムこそ大衆性をまとうものの、鑑賞者がその前に立つと、古代ギリシャ以来の芸術における主要命題のひとつ「実在と仮象」が2セット出現するからだ。ひとつは「鑑賞者」と「作品に映るその姿」、もうひとつは(この作品に限らず全ての視覚的認識に言えることだが)「作品」と「鑑賞者の網膜上で結ばれた像」である。また、前者の仮象はイリュージョン的要素が強く、ロックが窓に例えた感覚器官から得られるものが実際には思いのほか不確かだと悟らせるかのようである。

 もうひとつは、鍛金による造形のように「表の凸=裏の凹」という関係になっていること。きっかけは作家が「登山の時に見た眺めが、まるで平面のように見えた」という経験。常日頃からの思索の影響も多少あるかもしれないが、生理学的観点からすれば、むしろ的を得た認識なのかもしれない。なぜなら、カメラ・オブスクーラと同じ原理で網膜に投影された「仮象としての風景」は、少なくも立体物ではないからだ。なお、初公開の機会となる個展において、この《不在の視線》は甲州の山並みを望む窓と向き合うようにインストールされる予定である。

 

山内舞子(美術評論家)

© 2025 by Hikaru Narita

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